忍者ブログ

やたろう探し

上杉謙信の家臣 鬼小島弥太郎について、考えてみたり調べてみたりする趣味のブログです。

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

乙吉城(伝・城主)

鬼小島弥太郎が城主であったと言われています。


乙吉城は本城もしくは夏城と言い、
乙吉城の馬場跡より少し行った山上が居城、もしくは冬城と言うそうです。
その名前から、
夏は乙吉城(夏城)で政務を行い冬城を住宅として、
冬は冬城が政務所兼住宅になったのではないでしょうか。
乙吉城(夏城)の方が戦には優れているけど、雪が降ったら登城するの大変すぎるんじゃないですかね。


1つ前の記事の>龍穏院(伝・中興開基)<の裏手の山です。
お城の麓に城主さんの菩提寺があることが多いですね。


尾根上に切崖で区画された二つの曲輪からできており、山の麓には乙吉川が天然の水掘となっています。
規模も小さく簡略な縄張りとのことです。
文明年間の知行帳に乙吉を支配していた小島源三郎さんの名前が見られることから、おそらくその辺りには乙吉城は小島氏の城だったと考えられています。



行った時のレポ(別ブログ)

住所:新潟県長岡市乙吉町字堂ヶ峯

参考文献:温古の栞
 上杉謙信謎解き散歩 花ヶ前盛明編著
 曹洞宗 安楽山 龍穏院略史
 長岡市史 資料編1
 新潟市史 資料編3 長尾・飯沼氏等知行検地帳


2018/4/30更新(追記:青字)
2016/8/19更新
2016/8/17初稿

拍手[0回]

PR

死亡や出奔

死亡・出奔などの最後の消息として言われている逸話が複数あります。
聞いたことがあるものを、列挙します。
それぞれについての詳細は別途記事で書くつもりです。

・謙信の代に出奔し、会津に仕えた。(北越太平記)

・景勝の代に牢人。(上杉将士書上)

・永禄三年正月一九日 金澤原にて討死。(温故の栞)

・永禄三年六月一三日 正月一九日金澤原合戦の帰陣中に受けた毒矢が原因で死亡。(龍穏院略史)

・永禄四年九月十日 川中島で深手を負い、春日山に帰る途中で足手まといにならないよう割腹。(史跡にある看板に記載あり。元ソースはまだ未確認)

・謙信死亡後に出家(ソース未確認)

・謙信死亡後に帰農。景勝会津移封に伴い会津について行った(ソース未確定)

他にも見つけたら追記します。



2018/4/30追記(青字部分)
2017/11/05追記
2017/7/2初稿

拍手[1回]

文献での登場時期

( )なしが、「執筆された」とされている年代で、
( )ありが、幕府提出・書き写しなどの年代


1578年(天正6年)  上杉謙信 没
1600年(慶長5年)  関が原の戦い
1614年(慶長19年)  上杉三代日記 書印ありの日記・大阪冬の陣
1615年(慶長20年)  上杉将士書上 執筆・大阪夏の陣
1623年(元和9年)  上杉景勝 没
1645年(正保2年)  上杉定勝 没
 1669年(寛文9年5) (上杉将士書上 幕府へ提出)
 1688~1704年(元禄年中) (上杉三代日記 書き写し)
1694年(元禄7年)  越後頸城郡 春日山長尾謙信公古城の圖 ※鬼小島屋敷なし
1696年(元禄9年)? 謙信公御年譜(上杉家御年譜 謙信の部分)完成
1698年(元禄11年)   北越軍談 軍記物
1702年(元禄15年)  春日山城図 ※鬼小島屋敷なし
 1738年(元文3年)  (上杉三代日記 書き写し)
1836年(天保7年)   越後春日山古城圖
1849年(嘉永2年)   鶴城叢談
1823年以前(文永6年以前) 甲越軍記 軍記物
(江戸時代後期)    甲越信戦録  軍記物
江戸時代(幕末)以降  春日山城形圖博
 慶応4年        (春日山城形圖博 書替)
江戸時代(幕末)~明治時代初期 越州春日山城の圖
明治時代        天覧絵図
明治23~26年      温古の栞




上杉三代日記、上杉将士書上が執筆された時、まだ上杉景勝生きているのですよね…。
本人が全部、とは言わなくても近い人なりなんなりが目を通しているんじゃないかと。
その本には、小島弥太郎は記載あり。
後の世に伝わる小島弥太郎とイコールではなくても、同じ名前か近い名前の人はいたんじゃないかな…と現状思っています。

軍記物が流行るよりも前の時期かと思われますので、小島弥太郎が架空の人物であれば、
無理にいれなくてもいいんじゃないか?な時期でもありますし。
その後の書き写しでうっかり入れてしまったと考えても、
 1669年(寛文9年5) (上杉将士書上 幕府へ提出)
に関しては、幕府にも提出しているので現在に伝わっている「上杉将士書上」と大きくは異なっていないんじゃないかなーと思うのですが、どうなのでしょう?
軍記物などの影響で、どんどん話が盛られていくとかはあるかと思いますが。


気になるのは、甲陽軍鑑の成立日。
甲陽軍鑑上では、1575~1586年に書いた、と書かれており、
甲陽軍鑑の写本は1621年(元和7年)に書き写した、とのことです。
軍記物がすごい流行ったのは甲陽軍鑑の影響である、と言いますし。
そこ関係してきそうかな、とも思いますので、甲陽軍鑑も読んでみないといけませんね…。



ところで、大阪冬の陣・夏の陣の時期に上杉三代日記、上杉将士書上って書かれていたのですね。
戦争してても、それはそれとして事務仕事は必要であり、訥々と仕事が行われるのだなぁと関係のない感慨がありました。

拍手[0回]

赤金塗紫白糸威二枚胴具足

赤金塗紫白糸威二枚胴具足 宮坂考古館


鬼小島弥太郎の具足と伝えられている甲冑です。
前立てが月、具足のところどころに花菱の紋(おそらく家紋)がある、ど派手な赤x金の具足。
名前の通り、
赤金塗(赤と金で塗られている)紫白糸威(紫と白の威し糸の)二枚胴(胴の部分を展開すると、前後2枚に分かれる)具足です。

武田家伝来とも言われているらしく、ところどころ上杉風な部分もあるものの関東型、とのことです。



UPしてもいい写真を持ってないので、自作イラストですが、こんなかんじの甲冑です。



上杉謙信・景勝と家中の武装 竹村雅夫著」の「胸取毛引鍼二枚胴具足」と同一の甲冑と思われます。
こちらの本には、写真や詳細な解説の記載もあり。

「山形県の甲冑」において佐藤東一さんは「伝・武田家伝来」と言ってるそうです。
「上杉謙信・景勝と家中の武装」では竹村雅夫さんが「武田三郎信清(上杉景勝の正室の弟で、上杉家に仕えた)」の着領ではないか、と記載していました。

拍手[0回]

文献の信憑性とか

文献の信憑性とかって、どこでみわければいいのでしょうかね。
古ければ信憑性高い!ってものでもないし。
一次史料も当時の人の勘違いとか誤解とか、わざと嘘情報で撹乱狙ったりとか、そういうのありますし…。

研究家さんの書籍とかで、信憑性が高いものとして挙げられているものがやはりよいのだろうなとか思うのですが…。
軍記物はあくまでも物語!と思っていると、意外と本当のことも多いのではないか、って研究結果が発表されることもあるようで。

とりあえず今はひたすら調べてみようと思っています。

ただ、軍記物語とかに関しては、少なくとも「書かれた当時、こんな風に思われてた」もしくは「書かれたことにより、その後そう思われ始めた」ってことは言えそうですね。
現在でも、人気歴史漫画やゲーム、小説、ドラマで、その人物の前後の評価って変わりますし。

江戸時代も好きなので、それはそれで面白そうかな。時代背景もあるでしょうし。

拍手[0回]

ブログ内検索

最新記事

(08/16)
(08/08)
(09/24)
(09/22)
(09/22)

バーコード