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やたろう探し

上杉謙信の家臣 鬼小島弥太郎について、考えてみたり調べてみたりする趣味のブログです。

乙吉扣城(伝・城主)

乙吉扣城(おとよしひかえじょう)
鬼小島弥太郎の居城だと言われています。

乙吉城とセットのお城です。
乙吉城は夏城、乙吉扣城は冬城と呼ばれており、乙吉扣城は居城兼冬季期間の城だったようです。
周辺に城下、城口、馬場などの地名があり、複数の曲輪、土塁堀切があるそうなので、こちらの方が普段使われていた城なんじゃないでしょうか。

現在、乙吉神社がある場所の裏手の丘が城跡です。
登城口は乙吉神社ではなく、その近くの道からのもようです。
(行ったことはないけど、縄張り図見る限り)

神社さん入口


御手水があります。
横の祠が米沢(上杉家が越後から引っ越しした先)で特徴的な形状と有名なお墓形状と似ているのですが、何か関係性あるのでしょうか。
妙高・飯山・甲府でも見かけましたが、ここのが一番新しいですし、他のはお墓でしたがこちらは祠のようですね。
 

神社さん。ちゃんとお参りさせていただきました。

 

神社さんの右手裏。
この丘の上が乙吉扣城跡のはずです。
(ここからは登れません。
「長岡市史 資料編1」の縄張り図に、登城口も書かれてたので登りたい人はそちらを参考にしてください。)
 


行った時のレポ(別ブログ)


住所:新潟県長岡市乙吉町字岩村ほか
参考文献:温古の栞
 長岡市史 資料編1

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龍穏院(伝・中興開基)

鬼小島弥太郎が、龍穏院さんの中興開基(寺を再建した人)と言われているそうです。


鬼小島が亡くなった際に、謙信が鬼小島の父に命じて鬼小島の菩提寺としたそうです。
鬼小島の供養塔の他、墳墓、観世音木像、薙刀、鐙が保存されています。



境内に昭和に建設された鬼小島の供養塔があります。
山門入ってすぐの左側。
 

墳墓
鬼小島のお墓と言われています。

一般檀家さんのお墓の中にあります。崖ギリギリの場所にありました。
地震により崖から転落・石垣なども大破した…とのことなので、元々の形とは少し変わってしまっているようですね。


参道と山門。
苔むしてて素敵。


本堂。
 
本堂の中には、鬼小島の守り本尊と伝えられる観世音木像(馬頭観世音菩薩坐像)が祀られています。
地震で大破したとのことですが、素人目にはどこが壊れているのかまではわかりませんでした。
ちなみに、御本堂の中がシックでかっこよかったです。


こちらのお寺さんの裏手の山が乙吉城と言い、鬼小島の城だと言われています。
元は乙吉城の東に龍穏院さんはあったそうですが、鬼小島が亡くなった時に父三郎兵衛さんによって乙吉城の東南(現在の位置)に移されたとのことです。



>龍穏院行った時のレポ(別ブログ)<
龍穏院行った時のレポ2(別ブログ)


住所:新潟県長岡市乙吉町3316

参考文献:温古の栞
 上杉謙信謎解き散歩 花ヶ前盛明編著
 曹洞宗 安楽山 龍穏院略史
 安楽山・梅樹林・龍穏院の歴史を訪ねる~No2、3~


2018/4/30更新(追記:青字)
2016/8/19更新
2016/8/17初稿

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乙吉城(伝・城主)

鬼小島弥太郎が城主であったと言われています。


乙吉城は本城もしくは夏城と言い、
乙吉城の馬場跡より少し行った山上が居城、もしくは冬城と言うそうです。
その名前から、
夏は乙吉城(夏城)で政務を行い冬城を住宅として、
冬は冬城が政務所兼住宅になったのではないでしょうか。
乙吉城(夏城)の方が戦には優れているけど、雪が降ったら登城するの大変すぎるんじゃないですかね。


1つ前の記事の>龍穏院(伝・中興開基)<の裏手の山です。
お城の麓に城主さんの菩提寺があることが多いですね。


尾根上に切崖で区画された二つの曲輪からできており、山の麓には乙吉川が天然の水掘となっています。
規模も小さく簡略な縄張りとのことです。
文明年間の知行帳に乙吉を支配していた小島源三郎さんの名前が見られることから、おそらくその辺りには乙吉城は小島氏の城だったと考えられています。



行った時のレポ(別ブログ)

住所:新潟県長岡市乙吉町字堂ヶ峯

参考文献:温古の栞
 上杉謙信謎解き散歩 花ヶ前盛明編著
 曹洞宗 安楽山 龍穏院略史
 長岡市史 資料編1
 新潟市史 資料編3 長尾・飯沼氏等知行検地帳


2018/4/30更新(追記:青字)
2016/8/19更新
2016/8/17初稿

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鬼小島弥太郎 戦死の地 天神山跡

新潟県長岡市 栃尾 おおの苑です。
ここで戦死したと伝えられています。


まだ行ったことはないので、写真なしです。


参考文献:未確認
参考サイト:>栃尾観光協会< 
 上記サイトの、とちお観光マップ(市街地)に場所記載あり。

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春日山城(上杉謙信の居城

鬼小島弥太郎の主である、上杉謙信の居城です。
古地図では、春日山城城内に家臣屋敷跡が多くあり、鬼小島弥太郎屋敷跡もあります。


「鬼小島弥太郎屋敷」との記載のある古地図は下記の通り。
・春日山古城圖 天保7年(1836年)
・春日山城形圖博 慶応4年7月書替
・春日山城形圖博 江戸時代(幕末)以降
・越州春日山城の圖 江戸時代(幕末)~明治時代初期
・天覧絵図 明治時代


挙げた古地図から見ると、上図の「赤の点線」で囲った辺りのどこかが鬼小島弥太郎屋敷跡と予想されます。
現在の春日山城で「柿崎景家屋敷跡」と看板のある辺りです。
屋敷後は、どの古地図でも上条弥五郎、柿崎和泉守、黒金上野之助ら(他にも何名か)とほぼ同じ位置に描かれています。
越後春日山古城圖 天保7年(1836年)では、上条弥五郎、柿崎和泉守よりも一段下の曲輪に黒金上野之助と共に記載あり。
位置は赤丸部分のように見えました。


なお、鬼小島屋敷の見れなかった絵図は下記の通り。
・春日山長尾謙信公古城の圖 元禄7年(1694年)
 春日山城最古の図と言われている。
 一部家臣屋敷の記載あり。ただし「春日山古城圖 天保7年」に比べだいぶ少ない。
 景勝屋敷が現春日山神社近くに記載されている。この辺りを「中城」と呼んだといわれていること、景勝が「御中城様」と呼ばれていることから、比較的正確な位置ではないか。
・春日山城図 元禄15年(1702年)
 一部家臣屋敷の記載あり。
 景勝屋敷がなくその場所は「奥」となっている。
 柿崎・黒金屋敷跡が黒金門側に位置されており、後の絵図で共通される大手道・桑取道につながる場所と異なっている。
 黒金門がどの年代から呼ばれているのかの調査が必要となるが、黒金屋敷があったことから名づけられたのであれば、位置関係としてはこちらの方が正しいように思える。
 「春日山長尾謙信公古城の圖 元禄7年」に見られる「鉄上野」は「黒金上野」と同じ人物を指すと考えられる。


…春日山城の鬼小島屋敷が書かれた地図自体の信憑性が私の中でだいぶ疑問になってきました。
でも、それ以外の地図の信憑性がわかれば、記載されている家臣屋敷位置などから長尾上杉家中の情報もわかり、それはそれで面白そうですね。
あと、なんでここまで変化したのかな?とか。
改めて情報精査してこっちが正しいのでは?となったとか、なんらかの意図があったとか、軍事施設でもあるから色々情報ごまかしてたりとか。
米沢藩にその時期何があったのかとかも調べると意図も想像できるかも?
「中城」「黒金門」がいつから使われてたかを調べてみたいです。




 
 

>2016年1月の春日山城レポ(別ブログ)<
>2015年8月の春日山城レポ(別ブログ)<
>2014年5月の春日山城レポ(別ブログ)<




住所:上越市大豆1743

参考文献:
 越後頸城郡 春日山長尾謙信公古城の圖 元禄7年(1694年)
 春日山城図 元禄15年(1702年)
 越後春日山古城圖 天保7年(1836年)
 春日山城形圖博 江戸時代(幕末)以降
 春日山城形圖博 慶応4年7月書替
 越州春日山城の圖 江戸時代(幕末)~明治時代初期
 天覧絵図 明治時代




2016/8/23更新
2016/8/18更新

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