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やたろう探し

上杉謙信の家臣 鬼小島弥太郎について、考えてみたり調べてみたりする趣味のブログです。

春日山城(上杉謙信の居城

鬼小島弥太郎の主である、上杉謙信の居城です。
古地図では、春日山城城内に家臣屋敷跡が多くあり、鬼小島弥太郎屋敷跡もあります。


「鬼小島弥太郎屋敷」との記載のある古地図は下記の通り。
・春日山古城圖 天保7年(1836年)
・春日山城形圖博 慶応4年7月書替
・春日山城形圖博 江戸時代(幕末)以降
・越州春日山城の圖 江戸時代(幕末)~明治時代初期
・天覧絵図 明治時代


挙げた古地図から見ると、上図の「赤の点線」で囲った辺りのどこかが鬼小島弥太郎屋敷跡と予想されます。
現在の春日山城で「柿崎景家屋敷跡」と看板のある辺りです。
屋敷後は、どの古地図でも上条弥五郎、柿崎和泉守、黒金上野之助ら(他にも何名か)とほぼ同じ位置に描かれています。
越後春日山古城圖 天保7年(1836年)では、上条弥五郎、柿崎和泉守よりも一段下の曲輪に黒金上野之助と共に記載あり。
位置は赤丸部分のように見えました。


なお、鬼小島屋敷の見れなかった絵図は下記の通り。
・春日山長尾謙信公古城の圖 元禄7年(1694年)
 春日山城最古の図と言われている。
 一部家臣屋敷の記載あり。ただし「春日山古城圖 天保7年」に比べだいぶ少ない。
 景勝屋敷が現春日山神社近くに記載されている。この辺りを「中城」と呼んだといわれていること、景勝が「御中城様」と呼ばれていることから、比較的正確な位置ではないか。
・春日山城図 元禄15年(1702年)
 一部家臣屋敷の記載あり。
 景勝屋敷がなくその場所は「奥」となっている。
 柿崎・黒金屋敷跡が黒金門側に位置されており、後の絵図で共通される大手道・桑取道につながる場所と異なっている。
 黒金門がどの年代から呼ばれているのかの調査が必要となるが、黒金屋敷があったことから名づけられたのであれば、位置関係としてはこちらの方が正しいように思える。
 「春日山長尾謙信公古城の圖 元禄7年」に見られる「鉄上野」は「黒金上野」と同じ人物を指すと考えられる。


…春日山城の鬼小島屋敷が書かれた地図自体の信憑性が私の中でだいぶ疑問になってきました。
でも、それ以外の地図の信憑性がわかれば、記載されている家臣屋敷位置などから長尾上杉家中の情報もわかり、それはそれで面白そうですね。
あと、なんでここまで変化したのかな?とか。
改めて情報精査してこっちが正しいのでは?となったとか、なんらかの意図があったとか、軍事施設でもあるから色々情報ごまかしてたりとか。
米沢藩にその時期何があったのかとかも調べると意図も想像できるかも?
「中城」「黒金門」がいつから使われてたかを調べてみたいです。




 
 

>2016年1月の春日山城レポ(別ブログ)<
>2015年8月の春日山城レポ(別ブログ)<
>2014年5月の春日山城レポ(別ブログ)<




住所:上越市大豆1743

参考文献:
 越後頸城郡 春日山長尾謙信公古城の圖 元禄7年(1694年)
 春日山城図 元禄15年(1702年)
 越後春日山古城圖 天保7年(1836年)
 春日山城形圖博 江戸時代(幕末)以降
 春日山城形圖博 慶応4年7月書替
 越州春日山城の圖 江戸時代(幕末)~明治時代初期
 天覧絵図 明治時代




2016/8/23更新
2016/8/18更新

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